吾輩は新年来多少有名になったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。
元朝早々主人の許《もと》へ一枚の絵端書《えはがき》が来た。これは彼の交友某画家からの年始状であるが、上部を赤、下部を深緑《ふかみど》りで塗って、その真中に一の動物が蹲踞《うずくま》っているところをパステルで書いてある。主人は例の書斎でこの絵を、横から見たり、竪《たて》から眺めたりして、うまい色だなという。すでに一応感服したものだから、もうやめにするかと思うとやはり横から見たり、竪から見たりしている。からだを拗《ね》じ向けたり、手を延ばして年寄が三世相《さんぜそう》を見るようにしたり、または窓の方へむいて鼻の先まで持って来たりして見ている。早くやめてくれないと膝《ひざ》が揺れて険呑《けんのん》でたまらない。ようやくの事で動揺があまり劇《はげ》しくなくなったと思ったら、小さな声で一体何をかいたのだろうと云《い》う。主人は絵端書の色には感服したが、かいてある動物の正体が分らぬので、さっきから苦心をしたものと見える。そんな分らぬ絵端書かと思いながら、寝ていた眼を上品に半《なか》ば開いて、落ちつき払って見ると紛《まぎ》れもない、自分の肖像だ。主人のようにアンドレア・デル・サルトを極《き》め込んだものでもあるまいが、画家だけに形体も色彩もちゃんと整って出来ている。誰が見たって猫に相違ない。少し眼識のあるものなら、猫の中《うち》でも他《ほか》の猫じゃない吾輩である事が判然とわかるように立派に描《か》いてある。このくらい明瞭な事を分らずにかくまで苦心するかと思うと、少し人間が気の毒になる。出来る事ならその絵が吾輩であると云う事を知らしてやりたい。吾輩であると云う事はよし分らないにしても、せめて猫であるという事だけは分らしてやりたい。しかし人間というものは到底《とうてい》吾輩|猫属《ねこぞく》の言語を解し得るくらいに天の恵《めぐみ》に浴しておらん動物であるから、残念ながらそのままにしておいた。
購読残数: / 本